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GODDESS

2019年
04月28日

平成も後2日

平成も後2日

平成も残す処後2日と成りました。
イキナリ大型連休に突入し、
この後平成を振り返って感慨に耽って居る時間も無いと思います。
今晩は何時も拙い私のブログを見て頂いて居る方と
一緒に思いに浸って見たいと思います。
 私は昭和17年生まれで 終戦の3年前に生まれた事に成ります。
新潟の片田舎で 戦争の記憶と言うのは全く覚えが有りません。
又田舎だったお陰で 食べ物に苦労したという記憶も有りません。
昭和天皇が崩御され、小渕官房長官が
{新しい年号は平成で有ります} と達筆な筆で書かれた{平成}と言う額縁に入った文字は
何故か鮮明に覚えています。
そして今年の4月1日に現在の菅官房長官から
小渕氏の発表を踏襲し 同じ仕草で{令和}が新元号として発表されました。
執行されるのは5月1日です。
後2日と迫って来ました。
私は現在76歳。
人生の大半をサーフィンと共に歩んできました。
父の仕事の関係で 茅ケ崎に移り住む事に成りますが
子供の頃夏休みに新潟の柏崎鯨波海岸にトラックの荷台に近所の子供たちと
一緒に乗っかって連れて行ってもらった時に
荒れた海でゴムマットに捕まって波に乗った感覚が忘れらえず
それが元で 茅ケ崎海岸の波を見て
高校2年生の時に べニア板で フロート を作りました。
本物のサーフボードは知らないし
兎に角水に浮かぶものを作りました。
実はこの作品が後に成って分かった事ですが
意外とサーフボードに似た物だったのです。
リヤカーに載せて海まで運び 茅ケ崎中海岸野球場の前の海に浮かべて
波が来る前に立ってバランスを取って居ましたが
1っ発で吹っ飛ばされて板は砂利に刺さってバリバリと壊れて
その中に海水と砂利が入って引き上げるのに滅茶苦労しました。
全然無理で その重く成ったべニアの板をリヤカーに積んで帰りました。
 ここから先は長く成ってしまうので出来れば
私が書いた本 {人生はサーフィン、大きな波に乗れ}にリアルに描かれています。
其れから59年紆余曲折を乗り越えて
茅ケ崎本店、辻堂店、鵠沼店 3店舗
会社の資産として集約されました。
サーフィンは長年の念願だった来年のオリンピックの正式種目として承認され
長年苦労をされてきた諸先輩方の努力が実を結ぶ時が来ました。
道半ばにして他界された方も居ますが
其れを継承してゆくのが我々残された者の仕事です。
日本のサーフィンが大きなうねりになったのは
当時の丸井の力が大きかったと思います。
小売店として年間10、000本を販売しギネスブックに認められました。
賞金総額 ¥13、000、000 副賞 スズキのジムニー、川崎のバイク等が贈呈されました。
当時としては世界最高額の賞金でした。
私はこの9年間 ジャッジ委員長として務めさせて頂きました。
その実績に寄って日本人初めてのインターナショナルジャッジとして
オーストラリアナラビーンのコークの大会のジャッジをやりました。
後にオーストラリアヌーサロングボードフェステバルに於いてジャッジをさせて頂き
オーバー55歳では日本人初の5位入賞を果たしました。
 又時代が推移し カルフォルニア、サンタクルーズのサーフテック社と日本人初の
シエーパー契約のオファーが掛かり {スケグアイランド}と言うインターナショナルブランドを
打ち出しました。
正に {人生はサーフィン大きな波に乗れ} です。
スケグアイランドは  ハワイの元世界チャンピオン デノミランダが
マウイ島ホノルアベイのテンオーバーで スタンデングチューブの映像がユーチューブで流れました。
私の板です。
日本ではサーフテックジャパンのライダー ユージンティール選手がスケグアイランドを使って
グラチャンに輝きました。
私の長いサーフィンライフは シエーパーとしての道のりです。
今もシエープは天職として継続してやり続けて居ます。
シエープは難しくマダマダ到達出来て居ません。
恐らく一生かかっても開眼出来ないと思います。
唯、やみくもに進んで行くのみです。
人生100歳時代に突入しました。
気力はますます充実して来ています。
世界ナンバーワンシエーパーに成るためにマダマダ努力が必要です。
富士山に例えるなら 未だ5合目あたりです。
体が動く限りサーフィンし、シエープ道に励んで行きたいと思って居ます。
他に何も欲しい物は有りません。
{令和}に入っても何も迷いは有りません。
サーフィンしたい。もっと良い波に乗りたい。良い板を削りたい。
他に何も有りません。