オールラウンドクリエイター
ゴッデス(鈴木 正)の歴史は日本におけるサーフボードの歴史であると言っても過言では無いであろう、その訳を探ってみよう!

赤い板で波に乗る太った男が写し出された一枚の写真。好奇心旺盛な鈴木はこの写真に興味を覚えないわけは無かった。 早速、一枚の写真を元に、この板切れを作ってみることにした。グライダーの翼の要領で芯材のまわりにベニヤ板を貼り、 その上にペンキを塗って何とか板切れは出来上がったが、そのボードにはフィンが無く、ましてやワックスの存在も知らず、 ボードの上に立ち上がる方法も知らないのだから、上手く波に乗れるはずなど無い。 苦労して作りあげたその板切れは、当時は玉石が転がっていた茅ヶ崎の浜にぶつかって簡単に壊れ、水が溜まって引き上げるのも一苦労。 何度か修理して波に乗ろうと試みたが、そのうちに絵葉書の中の、波乗りへの興味は冷めていった。

   1962年、父の仕事の関係で逗子にいた鈴木は、七里ヶ浜の海岸線を何気なく自転車で走っている時、 初めて本物のサーフィンを目の当りにした。駐留軍の外国人がサーフィンをしていたのだ。どんなボードに乗り、 どうやって沖に出て、どうやって立ち上がり、波を乗り継ぐのか。一枚の絵葉書ではイメージできなかったことが、 全て現実の事として目の前に存在していた。 その瞬間、鈴木はサーフィンの虜になった。 その後、その外国人がアメリカに帰るときにボードを3万円(当時の大卒の初任給より高かったという)で買った鈴木は、 そのボードを研究材料に、硬質発砲スチロールをシェイプして新聞紙を巻き(発砲スチロールは樹脂に触れると溶けてしまう)、 樹脂で固めるという方法でボードを造り始めた。しかし、重さが15kgにも達し、失敗に近いものとなった。 やっと本物に近いサーフボードができたのはウレタン素材を見つける事ができてからだ。ただそれはサーフボード用のものではなく、 家庭製品用に作られたもので、縦・横・高さ、90cmの立方体のブロックであった。そのブロックを3個ボンドでつなぎ合わせて、 ストリンガーを入れて、約2m70cmの長さの固まりにしてから削りだすという面倒な作業が伴った。 しかし、フォーム、樹脂、ストリンガーと素材が整い、やっとサーフボードと言えるものがこの時、出来上がった。

そして25歳を前にしてようやく憧れのアメリカに向かうことになる。当時はまだそう簡単にアメリカに入国できなかった時代。 日本にサーフトリップにやってきて、鈴木の家にステイしたことにあるビル・ヒューリーにコンタクトをとった。 日本でサーフィンするためにやってきたビルをアメリカ大使館が鈴木に紹介し、湘南や千葉を案内したのだ。 カリフォルニア・ハンティントンに住んでいたビルから鈴木に届いた「ウェルカム」の手紙をアメリカ大使館に持っていき、 ビザをもらった。こうしてアメリカへ旅立った。  ビルはハンティントンでは有名人だった。デビット・ヌヒワをはじめ、クレイグ・ターカーなど多くのサーファーの ボードを削るシェイパーだったのだ。鈴木はビルがシェイプするプラスティック・ファンタスティックで掃除係として働き始める。 仕事の合間には鈴木は材料代を払って自分のボードをシェイプするようになった。日本での独学の研究で、 自分のボードぐらいは削れるようになっていたのだ。3本目のボードを削った頃、鈴木は技術を認められ、 オーダーのボードも削ってみないかといわれる事になる。シェイパー鈴木 正の誕生であった。 5ヶ月間のステイの中で鈴木は青春を満喫し、サーフィンに関する全てを学び、シェイプするための道具を買い込んで カリフォルニアを後にする。

鈴木は日本に帰る前に一ヶ月間ハワイに立ち寄っている。マカハ・インターナショナルに参加するデビット・ヌヒワに誘われたのだ、 ハワイではガソリンスタンドでアルバイトしながら最高な生活を送る。  その後、日本に戻った鈴木は、ゴッデスの元になる湘南で最初と言われているサーフボード工場を兼ねた「湘南サーフショップ」 を開いていた、1968年、当時の生産能力は一週間8本が限度で、作れば作っただけ売れてしまったという。 この頃、鈴木はコンペティションでも爆発的な成績を残している。1967年第2回全日本サーフィン選手権大会では2位、 翌年、第3回では優勝、第6回・3位、第7回・2位と、当時を代表するコンペティターでもあった。 さらに1969年日本人では初めてハワイのマカハインターナショナルサーフィン選手権に出場するという快挙を成し遂げている。